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橋本努講義「政治経済II」小レポート2007 no.3.

ときどき講義の最後に提出を求めている小レポートの紹介です。

 

 

 

経済学科4年 重久 佑介

A 利益と道徳

 経済社会において、多くの消費者は一定の商慣行に従って商品を買う。売る側・買う側の双方がこの暗黙の了解たる一定の商慣行に従って行動することによって、財やサービスがそれら、また取引相手に対する信頼を元にその価値が判断され、この中で売る側・買う側の両者が自らの利潤を最大化しようとして、社会的効用が最大に導かれていくと思われる。こういった商慣行を無視し、自らの利益のみの追求をするということは、結果的に自らの効用も減らし、社会全体の効用をも減らしてしまうことになりかねない。またその行動それ自体が非道徳的である。

 また、企業と従業員の関係の中に利益と道徳を考えたならば、従業員は健康的で文化的な最低限度の生活を企業の給料やその他の福利厚生によって保障されることによって、はじめて自らの損得を脱した思考・行動が生まれていくものだと思う。それによって、労働力の生産者たる社員と消費者たる企業の双方の効用が最大になると思われる。

このようにある程度の道徳を守って社の構成員が行動することで、もっとも理想的な資源配分状態が導かれると思われるので、私は道徳を支持する。

B 原理としての善と秩序としての善

 社会的弱者の最低限度の生活を保障し、全ての国民の生活を守っていくのが政府の役割であると私は考える。従って全ての国民の100パーセントの要求に応えることはほぼ無理である。そのため一部の人々の要求に応えられないことはしばしばあってしかるべきである。しかし自らの独力をもって生活していくことが困難な人々の生活を、仮に公正に反したとしても保障していくことというのは、最重要なことである。

また、既存の家父長制は現在に至るまでの経済的成長を支えるとともに、国民が幼いころよりの社会人教育を支えるもので、国民にとって有利である様々な技術や情報等を伝え残し、結果として国民の潜在的能力を高めていくものだと思われる。従って、私は秩序としての善を支持する。

C 自由な家父長制と人為的なリベラル制

内部告発者のように、自らの短期的な利益を捨て、倫理的な秩序を選択した者を救済することは社会的にマストであり、また経済的に正常な競争が行われることは社会的効用を増すことになるので、私は人為的なリベラル制を支持する。

ただし、家事労働を有償化することが必ずしも私的次元での男女対等社会を実現するとは言い切れず、家族関係に金銭を社会的に持ち込むことで、国民がよりお金に支配されていく印象を与えかねないかと思われる。

D 包摂主義と非包摂主義

 以前にも述べている通りに、政府の役割は社会的弱者の最低限度の生活を保障し、全ての国民の生活を守っていくことだと私は思う。政府は経済活動を倫理的な枠組みの中に誘導していくべきであると考える。従って私は包摂主義を支持する。

私は包摂主義の中でも、主体化型の立場である。

まずは、派遣社員問題についての考察を述べる。派遣社員という立場に現在置かれている人々の中でも、そのメリットからあえてそれを選んだ人と選択の余地が少なくそれを選んだ人がいると思われる。従って積極的に介入していくことが必ずしも是ではないと考える。しかしながら派遣社員であることのメリットを、例えばしっかりと定められた勤務時間が体系に守られたプライベートな時間が、削り取られていくことは収入の少ない社会的弱者を追い詰めていくことになるので、きっちりと厳正に残業代等の手当ては支払われていくべきである。

 次に、マクドナルドの問題を考える。私は基本的には主体化型を支持するが、マクドナルドに関しては、日本人が古来より米を主食としてきたことや、昨年より同社が販売を始めたサラダディッシュ等のいくつかの健康メニューを考慮し、特別に規制をする必要はないと考える。多くの人が毎日3食をとる中で、そこまでの規制を特定の企業に課すというのはいささか公平性にかけると思う。

 続いてたばこ問題を考えます。この問題では、いまだ十分でないたばこの弊害に関する知識をまず十分に広げていくことが重要であると思う。その中で、徐々に税金を上げていくということ、また喫煙可能な区域を狭めていくことをしていけばいいと思う。いきなり大きく制度を変えてしまうと、集団的に反抗をくらった際に、条例なり法律の執行力を失ってしまいかねないと思われるので、徐々に人口の多い都市圏を中心に規制を進めていくとともに増税をしていくとよいと思う。歴史からも、激変に弱くマインドコントロールをされやすい日本人にはそれが適していると思われる。

 グレーゾーン金利に関しては、自力で立ち直ることが困難な多重債務者に対しての救済措置はある程度おこなっていく必要があると思う、あまりにも積極的に行政が関わっていくというのは、自己破産者や多重債務者の社会人としての立ち直りにレッテルが貼られることによって、支障をきたすことがあると思われるので得策とは思えない。そのためやはり私は主体化型の立場を支持する。

 最後にホワイト・エグゼンプションを考える。私はそもそも年収八百万円以上というライン設定に疑問を感じる。年収八百万円という人は社会的にもちろん貧しいとはいえないが、かなり裕福であるとはいえないと思われる。といっても倍以上の額の年収を得ている人は多くいる。社会の土台を担っている層のモチベーションを崩しかねないので、これに関してはより慎重な議論をすべきであると思う。

 

 

政治経済学Uレポート

07/07/12  経営学科 3年加藤 雄也

 4月19日の講義やプリントから、私は国家型コミュニタリアニズムに分類された。しかし、プリントの経済倫理上の主要な争点から、どちらか一方を選ぶ際にとても悩んだ。これからその悩んだ過程について述べていく。

まず、Aの項目であるが、ここでは迷うことなくYの「道徳」を選べた。近年、企業間で敵対的買収などといった行動が多くみられるが、私はそれについて好意的には思っていない。このような行動は買収を通して2社が共に成長することを目的とせず、単にその資産といった目先の利益を目的として行われることがほとんどだからだ。したがって、私はYを選んだ。

次に、Bの項目について私は迷うことなくYの「秩序としての善」を選んだ。私は男女同一労働同一賃金については反対であり、Xの「公正」に分類される政府が銀行を救済するという護送船団方式には賛成であるからだ。身体の構造に差がある男性と女性に同一の労働をさせることは一見、平等にみえるが、肉体労働においては女性よりも男性が身体的に向いているといえる。このことから、男女同一労働は実質的に平等とはいえないと私は考える。また、護送船団方式をとることに対しても社会全体の安定を図るためであれば必要だと考えるため、私はYを選んだ。

3つめのCの項目では、とても悩んだものの、私はXの「自由な家父長制」を選んだ。Yの「人為的なリベラル制」の項目の中に談合を阻止せよとある。これについて、私は民間と政府との癒着による談合は絶対反対の立場であるが、民間同士による談合に関してはある程度認めるべきだと考える。もちろん意図的に高く落札できるようにする、というような政府に大きな不利益を与える談合は認めるべきではないが、同業者間において満遍なく落札できるように相談する程度なら認めてよいと思う。このことから私はXを選ぼうとした。しかし、Xの家父長制について考えてみると、自分の考えと合わない点があることに気付いた。一般に家父長制は年長の男性が家庭を支配する、という家族形態に基づく社会的制度であるが、私は男性が支配するということにこだわる必要はないと考えている。つまり、性別にとらわれることなくリーダーとしてふさわしい者を中心に家庭や社会を組織化すべきだ、という点が家父長制と私の考えとの大きな違いだ。また、内部告発を背信行為として罰するということ対しても、私は告発者を守る必要があると考える。組織の発展のためにはそれの妨げとなる部分を排除しなければならないからだ。以上のように私の考えにはXとYのそれぞれに合わない部分があるものの、どちらかといえばややX寄りではないかと思う。したがって、私はXを選んだ。

最後にDの項目についてであるが、私はXの「包摂主義」を選んだ。先にも述べたが、私は個人の利益よりも社会全体の安定を重視する、という立場をとっている。そのため、迷うことなくXを選ぶことができた。

以上の過程を経て、私は経済倫理上の主要な争点から自分の立場を選んだ。その結果、私は国家型コミュニタリアニズムであるとわかったが、自分がこの立場であるという実感はあまりない。しかし、今まで自分が何主義の人間か、ということに関して全く考える機会がなかったため、この課題を通して自己分析ができたことはとてもよい経験であると思う。今後は自分の立場である国家型コミュニタリアニズムについての知識を増やし、本当に自分がこの立場をとっているかということを検討していこうと考えている。

 

 

平成19年7月4日

野崎 祥子 

 私は、大学生になってから好んで見るテレビ番組に偏りがでてきた。それは、様々な職業に就いている人が、その職業についてや、その職業に就くまでの自分自身の過去について語るというものである。番組名を挙げると、『平成若者図鑑』『トップランナー』『プロフェッショナル仕事の流儀』『情熱大陸』『カンブリア宮殿』などである。最初は何気なく、こんな職業もあるのかといった感じでたまたま時間が合えば見ていたのだが、そのうちわざわざ時間を調べて見るようになった。そこで、なぜこのような偏りがでてきたのか、この種の番組に何を期待しているのかを考えてみた。

まず、私が番組内で一番集中して見ている部分が、ゲストが仕事での苦労や壁にぶつかった時の話をしているところである。どのような壁にぶつかり、どのようにして乗り越えたのか、非常に興味をもっているのだ。そして次に、どういう経緯でその職業にめぐり合ったのか、もしくは目指したのかという点である。この二点から気付いたことは、自分が働くということに不安を感じているということであった。私から見て、周囲の社会人は、やりがいをもって一生懸命働いているという部分しか見えず、どうしようもなく辛いことなどないように見える。しかし実際、バイトでもそうだが、辛いことは必ずあるはずで、毎日が楽しく働けるはずはない。学生なら、立ち止まってゆっくり悩んだり、友人に話を聞いてもらったり、親に泣き言を言ってみれば、なんとか壁を登って降りてくることができるが、社会人となると時間的にも年齢的にもそうはいかないように思えるのだ。そして本当に行き詰ってしまっても、軌道修正は難しそうだ。そんなに辛い状態の中で、なぜ人々は活き活きと働けるのか。それを知ることができれば、働くことへの不安が少しでも和らぐのではないかと考えていたのだと思う。心の片隅では、成功して活き活きと働いている人は働くうえでの苦しみなどなく、自分にぴったりの職を突き止めているのではないかという考えもちらつき、それを否定したかったのだ。

 そういう気持ちをかき消すために番組を見ていたのだが、番組内では見事なまでに苦労話が出てきた。構成上そうなっているのだろうが、私の不安を和らげるには十分であった。また、私の性格に似ている部分を見つけると、励みにも参考にもなった。皆、壁に何度もぶつかりながら働いていて、そしてそれを乗り越えることで、楽しみ喜びも一層のものになっているということが少しずつわかってきた。一見あたりまえで、よく言われることだが、編集されたものを通してであっても、実際に見て聞くことによって、ようやく現実味を帯びた言葉になったのである。

 不安が少しずつ薄れてきたせいか、最近見る回数が少なくなってきている。でも、私は番組によって心の落ち着きを取り戻せたと思っているし、現在不安や、行き詰まりを感じている人々がこの種の番組を見ているだろうと思う。

追記

最近、柳田國男の「人生の答えの出し方」という本を読んだ。そこには人生の中に本があることの重要性が書かれていた。大人になってから尚更わかる絵本のよさや、著者本人の傍らにはいつも本があったことが書かれていた。そしてそれがいかに人生を豊かにしているか。

私は、中学生のころは、本は自分で自由にその場面を想像できるから好きであった。そして、何か日常では感じられないような感情を、本を読むことで感じられるのが魅力だった。幸せな結婚を目前にしながら、乗客全員がこのままだと死ぬかもしれない状況の中で自らの命を犠牲にして多数の他人を救った主人公の話である『塩狩峠』(三浦綾子)などは、中学生の私には衝撃的で、いくら考えても、どうすれば良かったのか、損得を考えることも必要なのではないか、など、一人様々なことを考えた。人生の中で自分が感じられる感情など少ないもので、しかし、自分の経験していない感情はなかなか断片的に話を聞いただけでは推し量りがたい。人の気持ちを自分の少ない経験のなかで安易に判断することのないように気をつけたいと私は思っている。勝手に判断した場合、後になって後悔と自責の念にかられるからだ。そいった面でも、疑似体験ではあるが、本は私の少ない経験を少しだけ膨らませてくれる気がする。

本から、著者の生き方を学ぶこともできる。言葉との出会いだと思う。私は、「あの本の、○○という部分が」というように暗記するところまではいかないのだが、そのように言えるほどの言葉との出会いも本はもっていると思う。「人生の答えの出し方」のなかでも、難病や障害に苦しんでいて、絶望の中にいるときに看護婦から渡された本に、同じような苦しみのなかからでも、可能なことを見つけ出し活き活きとしている人間を知り、そこから挑戦してみようという考えをもって人生を変えた言葉も書かれていた。頭で無理だと考えていたことも、実際に行った人の言葉を聞くことで、逆転して「できるかも」と脳と心に働きかけることができるのだ。

また、著者は基礎知識を得なければ、人は考えることなどできないということも書いていた。患者が病名を告げられて、難病であるということしか分からなければ、もうそれは絶望だけであってそれ以上考えること、心にゆとりなどもてないということであった。そこで、著者は病院に図書館を置くことを薦めた。家庭の医学から看護婦が読むような医療所、また小説など幅広い本を置くことで、患者が思考の範囲を広げ、目前のことだけでなく、その先のこと、心のことなど考えられるようにということだ。実際に設置した大学病院では効果が表れているようだ。この案は素晴らしいものだと思う。身内が病気になれば、家族は必死でその病気について調べるものだと思う。その面からでも病院に図書館があり本が揃っていれば便利であるし、また入院は精神的にも辛く、看護している家族の精神と体力も困憊させる。そこで、本からの言葉に出合えるとしたら、わずかでも救いになると思うのだ。病院の本は寄付によって増加しているという。是非、他の大学病院も見習ってこの案を採用して欲しいと感じた。

 

 

4月29(710日改)佐藤未来

 派遣社員問題等5つの議論に関して各争点ごとに私が正しいと考える主義とその理由を以下で述べる。

 まず最初に派遣社員問題に関してはヒューマニズム型を支持する。不当な差別を撤廃するならば派遣社員を認めることに問題はないと思う。景気が回復局面に入ったとはいえまだまだ正社員雇用をそれほど増やす余力がない企業が多いなか、3年後には会社に残っているかもわからない移り気な若者を正社員として雇用するのはリスクが高く企業が敬遠するのも頷ける。また高月給よりも自由気ままな生活を好む人も増えており、彼らにとっては正社員として1社に尽くして働くというのはあまり魅力を感じないことかもしれない。その点派遣社員は雇用者側にとっては必要な時に必要なだけ頼むことができる融通の利く存在であるし、被雇用者にとっても派遣先の企業に対して大きな責任を持つ必要がなく当該期間だけではあるがある程度安定して稼ぐこともできるなかなかよいものだと思うので不当な差別のない派遣社員という制度は双方にとってもそれなりによい制度だと思う。

 次にマクドナルド問題に関してはサバイバル型を支持する。個人の食生活にまで政府が介入するのはおかしいと思う。ハンバーガーやフライドポテト、ホットドックなどはジャンクフードの代表であり高カロリーのわりに栄養もなく体に良いものだとは決して言えないし、食べ続けると間違いなく何らかの病気を発症してしまうだろうとは思う。しかしだからといって政府が人々に考える余地も与えずに禁止してしまうのはいかがなものだろうか。ただ政府が良し悪しを判断し、それに従うのでは食生活に限らず人々の判断力を奪うことになるのではないか。これは食生活の乱れによる肥満や各種成人病よりも深刻な問題である。政府はあくまで自由放任を貫いて各人の自由な判断に任せればよい。ある人は高コレステロールで苦しむかもしれないし、またある人は栄養バランスを考えた上で時にはジャンクフードを楽しむ生活を送るかもしれない。人それぞれ自己責任の下で自由な食生活を楽しめばよいと思う。

 次にたばこ規制問題に関してはヒューマニズム型を支持する。たばこのように強い中毒性をもつものを規制するのはそもそも非常に難しいので喫煙者には喫煙を認め、その替わりに嫌煙者に迷惑がかからないように徹底した分煙対策を進めればよい。分煙対策をたばこ税から行い、また喫煙者が分煙ルールを守る限りは嫌煙者に対してできる限りの責任を果たしており都市部であってもたばこを吸う権利を認めることができるだろう。

 次に金利グレーゾーン問題についてはヒューマニズム型を支持する。グレーゾーン金利でも借りたい人がいる以上規制は必要がないと思う。ただ非常識であまりに度を越した取立てを行い個人の尊厳を傷つけるような事態が生じないようにするための規制をおこなえばよい。またたった一度の失敗のために死んで償えというのはあまりに酷なので多重債務者のように真に追い込まれた人々には自尊心を失わずにすむような最低限度の救済を行えばよいと思う。ただしその救済はあくまで最低限度に留めるべきで2度と同じ過ちを犯さずにすむような教育的な要素を持つものにすべきだと思う。

 最後にホワイト・エグゼンプション問題に関してもヒューマニズム型を支持する。人によって仕事の能率が異なっているにもかかわらず一律同じ仕事時間で管理するのは合理的だとはいえないと思う。ホワイトカラーの仕事はブルーカラーの仕事のように働く時間の長さが仕事の出来高と密接に関係しているわけではないので一日にやるべき仕事を会社が決めて好きな時間にホワイトカラーが与えられたタスクをこなすほうが彼らもプライベートを自由に取ることができてよいと思う。ただサバイバル型のように完全に自由化すると残業代を払わないのをいいことに会社が膨大な仕事をホワイトカラーに押し付け一方的に会社が得をする制度となりかねないので会社による働かせすぎを予防する手段として過労死認定の強化は不可欠である。

 このように私は以上5つの問題についても自由主義的解決が望ましいと思う。

 

 

200775日提出 経済学部経営学科 荒木 祐子

 今日本社会の格差が問題になっている。三浦展氏の著書『下流社会』(光文社 2005年発行)によると、日本の社会は1955年体制における「一億総中流化・平等化モデル」から、2005年型の「階層化・下流化モデル」へと転換しつつあるそうだ。この本では、階層を決める大きな要因としてコミュニケーション能力が挙げられていた。男性に関しては、「上流」の人ほど性格が明るく、人の好き嫌いがあまりなく、人づき合いが良く、気配りができて実行力があり、依存心が弱く、「下流」の人には、性格が暗めで、優柔不断で、依存心が強めというタイプが多い。女性に関しても、「上流」の女性は社交的であるのに対し、「下流」の女性は目立たない人が多いようだ。また、コミュニケーション能力の差は恋愛面でも大きな影響を及ぼしている。恋愛をするためには相手をよく知るためのより高度なコミュニケーション能力が要求されるため、コミュニケーション能力の高い男女ほど結婚しやすく、仕事もでき、消費を楽しむという一方で、コミュニケーション能力の低い男女ほど結婚しにくく、一人でいることを好み、仕事にも、消費にも意欲がないという分裂が生じる。

 この本を読んでから、コミュニケーションに興味を持つようになった。それ以前にも、サークルやバイトなどで初めて会った人とうまく話せなかったり、飲み会などで共通の話題が少ない人と隣の席になったときに沈黙になり気まずい思いをするなど、もっとうまく話せるようになりたいと思うことがしばしばあった。それから、私はコミュニケーションに関する本を読んだり、コミュニケーション能力の高い友人をそっと観察してみたりして、どうすればもっとコミュニケーション能力を高められるかについて考えるようになった。

特に、感銘を受けた本はデール・カーネギーの『人を動かす』(創元社 1958年発行)である。私はこの本から様々なことを学んだ。まず、人を動かす秘訣は、自ら動きたくなる気持ちを起こさせるしかない。そして、そのためには相手の欲しているものを与えるのが最も効果的である。ジグムント・フロイトによると、人間のあらゆる行動は性の衝動と偉くなりたいという願望から発するそうだ。また、ジョン・デューイによると、人間の持つ最も根強い衝動は、重要人物たらんとする欲求であるそうだ。つまり、人間には皆他者から認められたいという欲求があり、これを満たすことができれば人を動かすことができるのである。自己の重要感を満足させる方法は人それぞれ違っているため、それがわかればその人物がどのような人間であるかがわかる。自己の重要感を満足させる方法によって、その人間の性格が決まるのである。

 このように、本は様々な優れた知識を与えてくれる。しかし、私が感じたのは知識も大切だが、それ以上に実践の方が重要であるということだ。本だけ読んでコミュニケーションについて考えても、たくさんの人と話さないことには何も始まらないのである。そして、自分なりにいろいろと考えた結果、人と付き合う上で最も重要なことは人の立場に自分の身を置くことだということに気付いた。文字にしたり、言葉にしたりすると当たり前のことだが、難しいことだと思う。

 

 

2007/07/11

経済学部経営学科3年 谷内由布子

ナショナリズムについて

 最近、ナショナリズムについて考える機会があった。私は、これまで、自分には日本への執着などほとんどないし、ナショナリズムという言葉もピンとこないのが現実だった。

 しかし、いろいろな文献を読みナショナリズムについて調べていると、日本の若者には、消極的なナショナリズムが存在しているということがわかった。私たちは、ナショナリズムという言葉自体では、あまりナショナリズムを持たないように感じるが、それは、日常生活にナショナリズムが浸透しているからで、無意識のナショナリズムが存在するようになったのだという。そして、サッカーのワールドカップや、オリンピックといったイベント事になると、日本を応援しようと積極的に日本の主張をする。日常では消極的なものが、非日常になると積極的に主張される、そんな存在になっているのだ。これは、私の中で納得のいく答えであった。

私は、それからなんとなく、ナショナリズムを意識して生活するようになった。

日常に潜むナショナリズムとは、たとえば、海外企業の日本参入や、ドルやユーロのレートに脅えるといった感情的なものである。実際、ニュースや新聞を読み、そういった感情を抱いていたのは確かであった。

現在、留学に向けて準備中であるのだが、その準備の際にも日本のよさや、日本へ固執してしまう自分がいる。それぞれの国に、それぞれ良さがあることは分かっているし、日本が必ずしも良いとは限らないのもわかっているつもりだ。だが、便利になりすぎている国「日本」での生活に慣れてしまっている私には、外国が不便に思え、不安は膨らむ一方である。こうして、日本っていいなあと感覚的に思うことも、一種のナショナリズムなのだろうと考える。

ナショナリズムは、これから世界が形を変えていくときに、障害となるのだろう。国という枠組みが、争いや憎しみを生み出しているのも現状だ。

だが、私は、ナショナリズムがこうして日本に存在することを悪いこととは思わない。現段階は、ナショナリズムをなくし世界を1つにするのではなく、ナショナリズムによって国同士の摩擦を解消しなくてはならない時だと考えるからだ。けれども、我々に自覚があまりないというのは問題だと思う。ナショナリズムに対してどのように向き合っているのか、自分はナショナリズムをどこに感じて生活しているのか、そういったことを意識することが必要だろう。そうすることで、ナショナリズムは洗練され、必要なときに主張されうるものへと形を変えていくのではないか。

 

 

TOEICと私の世界の関係性と私の未来計画 2007/7/5

経済学部経済学科4年 今野 瑛

 私は、政治経済学の大学改革論を受けて、自分がいかに勉強していなかったに気づいた。そこで、大学改革論であったように、北海道大学が大学進級にTOEICの点数が必要である制度と仮定して、TOEICを受けることにした。自分は、大学2年生の時にお試しで受けて、460点というとても恥ずかしいスコアを取ってしまった。そこで、今回は、平均以上をクリアできるようにと、試験の対策を必死に行った。そして、5月の試験で、なんとか650点を取ることができた。

 TOEIC650点は、受験生全体の平均をはるかに上回っているといえるが、英語が堪能であると言ってよいレベルではない。しかし、650点を取ったことで、少し世界が広がった。

 まず、国連大学のグローバルセミナーに申し込んでみた。テーマは『Forests and the Environment in the Era of Globalization: Considering Global Sustainability in Hokkaido』である。英語でのディスカッション等を行うため、審査があり、まだ参加できるか決まっていないが、TOEICの点数が650であったからまず、申し込むという行動を起こしたと思う。

 また、私は、卒論の提出が終わったら、海外インターシップに行こうと考えている。そこで、AIESECという学生NPO団体にインターシップを申し込んだ。この申し込みにもTOEIC600点以上という規定があり、それをクリアできたから申し込めたと思う。

 また、私は男子ラクロス部に所属していて、最近国際親善試合というカルフォルニアの選抜選手たちが北海道に来て、私たちと試合をするというイベントがあった。そこでも、外国人選手と日本人のコミュニケーションが取れるようにちょっとした通訳の仕事も、自ら立候補して行った。そのカルフォルニアの選手たちに3日間付きっ切りで、最終日は、英語でFarewell partyの司会を英語で行うなどした。これらはとてもよい経験になった。これもTOEICを受けていなかったら、立候補していなかったと思う。

 このように、私は、TOEICの受験して、スコアを伸ばして今まで考えてもいなかった、セミナーなどを経験できた。

 私は、このようにTOEIC受験という些細ともいえることで、ここ3ヶ月の間に面白い経験をできた。そしてこのことに味をしめてしまった。たとえば、もしTOEICがさらに900点以上あれば、ユネスコの隊員として、発展途上国の援助活動に参加できる。また、私は内定をもらった銀行は、TOEICの点数が、海外駐在員を派遣するに当たっての重要な選考基準になる。

 私は、中国に留学していた経験があり、中国語はある程度できるので、中国語圏で、生活できる。中国語でビジネスをできるようになるまで、語学だけの問題なら2年くらいでできるようになる自信はある。そこに、英語というスキルも付け加えることにした。

 私は、国連大学のグローバルセミナーで得られるであろう、知見を持って将来、持続可能な世界を、金融の面から作っていきたいし、海外インターンシップで、2006年のノーベル平和賞を受賞したグラミン銀行のマイクロ・クレジットを発展途上国現地で、生で体験し、銀行家として世界の貧困と戦っていきたいと思う。また海外駐在で、世界の優秀な人たちと交流していきたい。

 最近、こんなことを考えた。

 

 

ネオリベラリズムに対する所見

経済学部経済学科 大山知恵子

はじめに

ネオリベラリズムという思想は、もともと「肥大化した福祉国家の問題状況に応じる政策論として受け入れられてきた」[1]。公的サービス機関が(1)支出をもとにした予算を基礎とし、売上の中から代価を得る組織ではないこと、(2)数多くの関係者に依存しているため、全ての人を満足させなければならないということ、そして(3)このような機関が結局善を行うために存在しているため、そのための任務は道徳的に絶対であり、費用効果の計算に馴染まないこと[2]などの要因により、組織内での経営状態の改善が非常に起こりにくく規模のみが巨大化してしまったことが問題となったのである。このように非効率的な経営を内部で改善しにくい公的機関を民営化することは、なるほど小さな政府を実現する上で有効である。

私自身は、ポリティカル・コンパスでは経済的な面ではかなり保守的であり、統制経済を指向していた。さらに私自身の政治的思想は、反グローバリズム運動の思想の中でも「社会運動やNGO活動やローカルなコミュニティ自治に関心を寄せる」[3]ラディカル派に属すると思う。フェアトレードや地域通貨、地域共同体の再生に関心を抱き、NGO活動にも参加している。

しかし、テキスト『帝国の条件』における分類では、私のような立場もまたネオリベラリズムを洗練へと導くものであるとされている。『帝国の条件』を読んでいて混乱したのは、ネオリベラリズムが自由経済の「見えざる手」を無邪気に信奉するものでもなく、「いまでは「第三の道」や「新しいケインズ主義」や「新保守主義」をも含む理念」[4]となる、理念の拡張があるからである。

 もしそのようなものが新自由主義であるなら、新自由主義は名前を変えるべきではないかと考える。なぜなら、自由主義という言葉は、経済至上主義で弱者をかえりみないというだけのイメージでさえなく、特に近年の日本においてはいわゆる「自由主義史観」という問題がある。最近アメリカ下院で日本に慰安婦問題に関して謝罪を求める案件が可決されたが、日本人の国民的一体性を重んじ日本人としての誇りを取り戻させようとする日本のナショナリズム化の代表のような自由主義史観ではいわゆる「従軍慰安婦」をなかったものとしたり、するなど今までの日本の歴史教育では考えられなかった説を大胆に取り入れている。これは現在の日本では主流になりにくい考えであり、危険視されることもある。実際には最近日本は右傾化が進んできているといわれており、2CHのような匿名のメディアではそのような歴史観を歓迎するような言説もよく見かけるが、そこまで主流であるとはいえない。

 このような、いわゆる自由主義史観の「自由主義」とネオリベラリズムの「自由主義」には確固たる違いがあるのはきちんと説明を受ければ分かることだが、聞いたままの印象では危険なイメージを連想してしまうかもしれない。ネオリベラリズムの「自由」とはおそらく人々の競争を容認することだと私は考えるが、まず名前を変えてみてはどうだろうかと提案する。それによって印象が変わり日本の人々に受け入れられやすくなるのではないか。

 私自身、はじめは「自由主義」という言葉が含まれているというだけで危険な思想ではないかと感じていたが(危険かどうかはもちろん個人の価値観によって印象が変わるだろうが)、話を聞くにつれ、これは私の思っていた自由主義とはだいぶ違うようだと思うようになった。人間はだまされやすい生き物なので第一印象は重要である。だから新自由主義=ネオリベラリズムで世界をよりよくすることを目指すならばもっと受け入れられやすい名前へと転換するのがよいだろう。

 ここまで私の提案を行ってきたが、ネオリベラリズムが掲げる競争主義について考えたい。競争には2つのイメージがある。ひとつは勝ち組と負け組みを作り出す格差社会のイメージ、そしてもうひとつはよりよいものを作り上げるために技術や知恵をしぼって人々が互いに切磋琢磨しあうイメージである。現在はとにかく前者のイメージが先行し、競争には否定的な意見も多い。

 しかし最近になってノーベル平和賞を受け取ったバングラデシュのムハマド・ユヌス氏がいる。彼はいわゆる貧困層と呼ばれる人々に小額の融資を利子つきで行う「マイクロクレジット」の生みの親であり、実際に数多くの貧困女性の生活を改善したとしてノーベル賞を受賞した人物である。私は彼はとても忠実な新自由主義者ではないかと考える。なぜなら、彼の考え方は、むしろ経済成長期の日本の考え方にも近いように思えるほど競争というものを重要視し、むしろ競争しよりよいものを作り上げようとする意欲を削ぐような慈善活動や施しを批判する。そのため彼はマイクロクレジットは慈善活動ではない、ビジネスであるといってきちんと利子をとり、それで得た利益からマイクロクレジット制度をさらに大きなものにしてきた。人間の競争力、創造力を信じているのである。このような考え方は非常にネオリベラリズムの考え方に近いと感じる。そしてユヌス氏は確実に成果をあげているのである。きちんとした制度があれば、競争原理が貧困を助ける手助けにもなるということは、非常に重要な事実だ。私は数年前にムハマド・ユヌス氏の活動を知り、素晴らしい慈善活動家だと考えていたが、それは違った。彼は社会的活動を行うビジネスマンだったのだ。

 このように、社会貢献や社会福祉に競争原理や厳しさを取り入れている例はまだある。2つ目の例は世界基金だ。世界基金(世界エイズ・結核・マラリア対策基金)は、人間の生存と安全を脅かす三大感染症の危機と闘うため、世界各国の協力のもとに途上国の感染症対策を支える資金を提供する基金で、スイスの法 律に基づく民間財団として20021月に設立され、各国の政府拠出をはじめ民間財団や個人からの寄付等、官民が共同で拠出し、政府、国連機関、NGO、学界、企業、宗教組織、および感染症に苦しむ人々の協力のもとに、開発途上国におけるこれら感染症の予防、治療、感染者支援のための資金を提供している。

20074月現在、世界基金に寄せられた寄付は約70億ドル(誓約ベースでは103億ドル)という莫大な金額であり、その大半がG8諸国を中心とする各国政府の拠出 金である。そして2002年の発足からこれまでに世界136カ国の450のプロジェクトに対して総額約76億ドルの支援が承認されている。[5]

この莫大な額の援助は、どのように選ばれたプロジェクトに行われているのか。それは厳しい審査である。全てのプロジェクトは確かな実行性と効果を持つプランであるかどうかを徹底的に審査され、もし審査に通れば莫大な支援金を得ることができる。しかし全てのプロジェクトは資金を提供されてから2年後に再びその資金を使って正しい運営ができているのか、効果は上がっているのかなどについて厳しい審査を受け、もしその審査で認められなかった場合は援助を打ち切られてしまう。これは社会福祉支援を行う団体においては非常に勇気のある決断だろう。概してこのような資金援助は投資収益率のような数値がないために、温情主義に陥り資金の投入がどのように効果をあげているかをみることは難しいとされる。そしてこれは日本の税金による福祉政策にも言えることかもしれない。

このような厳しい審査を課す方法は、批判を受けることもあるだろうが援助を受ける側にも常に緊張感を与え結果を求めることで限りある資金を有効に使い、よりよい社会を築こうという思想が感じられる。

温情主義的な社会福祉が限界にきているといわれる今、冷静にネオリベラリズムを考え直し、よりよい社会を現実的に作り上げるにはどうしたらよいのかを考えるときがきたのではないかと感じる。

参考文献

橋本努『帝国の条件 自由を育む秩序の原理』、弘文堂、2007年。

P.F.ドラッガー『イノベーションと企業家精神』ダイヤモンド社、1985年。

参考URL

世界基金支援日本委員会http://www.jcie.or.jp/fgfj/top.html、閲覧日2007/07/04

 

 

平成1952 阿部江里奈

私の一貫したスタンスは、「個人の自由を尊重すべき」である。ただし、健康や安全に危害が及ぶ可能性があるときには政府が介入する必要がある。そして、個人が正しい選択をできるように政府は私たちに、ある程度の知識を与えなくてはならない。

「派遣社員問題」に関しては、ヒューマニズム型の派遣を容認するが差別をしてはならない、という考えに賛成である。派遣社員はもはや、なくてはならない雇用形態である。色々な雇用形態があるのは、私たちにも企業にも選択肢が増えるし、派遣の安い労働力は日本の経済力を維持するためにも必要なのである。しかし、派遣というだけで差別するのは絶対にあってはならない。派遣と正社員との違いは雇用形態だけであって、同じ会社で働く仲間なのだから、社員の食堂での価格差・人格否定を許容するのは、正社員のエゴでしかない。また、個人の頑張りと希望によっては派遣から正社員の登用をもっと認めるべきだと思う。つまり、派遣と正社員が固定化され、選択の自由がなくなるような社会はいけないのだ。

「マクドナルド問題」に関してもヒューマニズム型の食べたい人が食べればよいという考えを支持する。マクドナルドは一民間企業であって、それを政府が規制する権利などない。食べるか食べないかはあくまで個人が選択する権利である。マクドナルドはすぐさま健康に害を及ぼすとは断言できないので政府が規制できる根拠もない。ただ、マクドナルドは否定しなくとも、日本食の良さを広める活動は、もっと実行するべきだ。

「タバコ問題」に関しては、ヒューマニズムと主体型の折衷的な案を考える。タバコは自分の健康を害するだけではなく、煙が他人にも迷惑をかけるので、社会的に見て、ないほうがいいものであるのは明らかである。最近では、禁煙タクシーを訴え続けてきたタクシー運転手が長年の受動喫煙によって自ら喉頭がんに冒されてしまった、というニュースが印象に残っている。タバコは人の命にも関わる重大な害なのである。よって、タバコを吸うためには、かなりの代償を払ってもらう必要があるし(具体的には税金をさらに課税)、タバコが嫌な人が一人でもいる場では、吸わせるべきではない。そして、ここまでタバコを吸うハードルをあげても吸いたい人については、やめろといっても効かないと思うので、それは上記の条件を守った上で認めてあげてもいいだろう。その際にも、政府は、タバコの害を広く普及させる努力をしなければならない。

 「グレーゾーン金利」に関しては、ヒューマニズム型に一番近いと思う。自殺という選択肢は排除しなければならないと思うので、自殺できないようなシステムを考える必要がある。しかし、死ぬほど追い詰められている人にとって、最後の手段である自殺をなくしてしまうだけでは、ただの生き地獄となるので、生活保護なり自己破産という措置で助かるということをもっと周知徹底するべきであると考える。

「ホワイトエグゼンプション」については、認めてもいいが、過労死認定はしっかりしなくてはならないと思う。よって、ヒューマニズム型の立場である。過労死は命に関わることなので、これに会社が責任を負わないというのはあまりにも非情であるし、会社は社員を使い捨てのモノとしか考えていないということになってしまう。だから、ホワイトエグゼンプションを導入しても、国民の休日は勤務禁止だとか(これはあくまで例だが)の方策を講じて、会社は過労死させない環境を提供しなければならない。

結論として、冒頭にも述べたとおり、私のスタンスは健康安全の範囲内での個人の自由の重視である。私の主義に一番どれが近いかといわれれば、間違いなくヒューマニズム型であろう。

 

 

『大学の目的』2007/07/03 3年 佐藤由以

 今期、政治経済学Uを受講して、一番印象的だったのは、最初の授業で先生がお話した『大学改革論』だった。しかし、私の興味の示し方は、少なくとも、先生の意図したそれではなかったと思う。

 授業では、改革論の軸として、『多機能教育空間の創造』が挙げられていた。その実現のために、二つの案があった。ひとつめは、試験、及び受験時期を柔軟に選べるようにして、余裕のできた時間に自分にあったオプション(社会経験、海外経験など)をつけられるようにすること。ふたつめには、授業の外注化、様々な学部(ジャンル)の授業を受けられるようにすることで、知識の幅を広げ、自分のやりたいことをみつける、というものである。

これらから私は、ここで考えられている『大学の目的』を、『自分のやりたいことを見つける』こと。そのために、大学(制度)は『色々なことに手を伸ばせる環境』である必要がある、と理解した。

 しかし、実際には、これとはまったく反対の考えがある。

 私の知る教授・准教授の中には、「せっかくの大学時代。贅沢な時間を過ごしているのだから、学問にしっかり集中するべきではないか」と問いかける方もいる。確かに、バイトやインターン、部活やサークルなどの学問外の活動に明け暮れて終わる学生時代には、賛成できない。特にバイト、インターンは、極端な話だが、卒業後就職したときにできる。むしろ、本業になる。「就職したらどうせやらなくてはいけないことをすることが、大学時代に必要なのか」という疑問は、決して「学生は、勉強だけをしていればいい」とイコールにはならない。

 加えて、私の友達は、「色々なことをして、没頭するのは、その忙しさに酔っているだけなのではないか。行動がすべてだという考えは、大学生のレベルではない」と指摘する。なるほど、確かに、自分探しに勤しむにも、自分の行動に対する評価が必要となる。その評価をするには、一回、忙しい生活から引き下がってみる必要もあろう。知的好奇心は、手足と直結しているものではない。

 では私はどう考えているかと言うと、「興味のあることは、とりあえずやってみよう」という自己スローガンをもとに行動している。これだと、結局何でもやることになってしまうので、同時に、「自分に必要なことは、自然と淘汰されてゆく」とも信じている。しかし、先に述べた二つの意見には、正直反論できない。聴く度に、「わかるんだけど・・・」と言いつつ、心と胃は痛む。言葉通り、胸にしっかりと刻まれている。

 大学の目的とは、何だろうか。

 大学に三年間いても、こんなことを考えている自分が、すこし恥ずかしい。

 

 

経営学科 3年 坂入おり絵 2007425

八つの理論的立場

私は、A利益、B秩序としての善(Y−1成長派)、C自由な家父長制、D非包括主義を選び、新自由主義(ネオリベラリズム)の立場になった。新自由主義とは、個々人の自由を尊重し、その代償として自己責任に重きを置く立場だといえる。

私の出身校はいわゆる校則のない自由な学校であったが、学校が生徒に学生服を強制しないのも、茶髪やピアスを許すのも全てが「やるべきことをやっている、実力が伴っている」からであった。つまり高校生はきちんと勉強しさえすれば、オシャレにうつつをぬかそうと、休日にゲームセンターで遊ぼうと、アルバイトをしてお金をためようと、生活を制限される必要はどこにもなく、世間一般で言う「高校生らしい」生活態度の学生の方が高く評価される根拠はない。要は、世間の目(倫理)や高校生はこうあるべきという慣行に従っているかではなく、生徒の出す結果(実力)のみを評価対象とすべきである、という考え方に沿った方針であった。ただ、もちろん校則がゼロというわけではなかった。たとえば、外靴と見分けやすくするために上靴の色は白でなければならない、冬は自転車登校が禁止になるといった合理性が認められるものは存在を認めていた。

同じことが企業にも言える。政府からの束縛を受けずに自由に競争できるのが、資本主義社会における本来の企業の姿だと私は考えている。もちろん法に触れる行為は罰せられるべきであるが、ネクタイをしめようがしめまいが、茶髪にピアスをした若者だろうが、実力のあるものが認められ、報われるのが望ましい。競争の際に、企業が利益追求を前面に出して戦おうと、慈善活動的な方針をとろうと、それもまた企業の自由である。また、意味のない慣行は排除し、合理性がある慣行(談合など)は多少の問題があっても存在価値があるといえる。

誰もが競争に参加でき、努力と才能がありさえすればのし上がれるのだから、競争に勝つも負けるも自己責任である。頑張れば報われる社会で、努力をしない者が落ちぶれていく、いわゆる弱肉強食になるのは致し方ない。努力をして勝ちを手にした者から多く税金をとり、努力をよりしなかった者からは少なめに取る、累進課税における「公正」は公正ではない。また、どの国を見ても男女を比較すると、多かれ少なかれ女性の賃金が低いのはそれなりの合理的理由(仕事をやめるリスクが高い)があってのことである。よって男女平等をうたい、闇雲に給料や勤務時間を男女等しくすることを「公正」とも呼べない。しかし経営者個人の信条として、男女を等しく扱うことはもちろん認められるし、夫が妻の家事労働の有償化計算をしても、逆に妻が夫に封建的に尽くしても、全て個人の自由であって、強制されるべきものではない。

 

 



[1] 橋本努『帝国の条件 自由を育む秩序の原理』、弘文堂、2007年、p.118

[2] P.F.ドラッガー『イノベーションと企業家精神』ダイヤモンド社、1985年、p.304

[3] 橋本努『帝国の条件 自由を育む秩序の原理』、弘文堂、2007年、p.183

[4] 同上、p.141

[5] 参考URL、世界基金支援日本委員会http://www.jcie.or.jp/fgfj/top.html、閲覧日2007/07/04